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CML8年。私を応援してくれた言葉

野 村 英 昭(山口・CML

 42歳のとき健康診断で、親しい医師から「野村さん、白血病ですよ」と言われてほぼ8年が経過しました。インターフェロンを射ちながら普通に仕事をし、充実した日々を過ごしています。


「飲む、打つ、買う、何をしてもかまいません」

 大学病院の最初の主治医は、私に5年で0になるグラフを書いて見せ、「平均3年で急性転化です」と説明してくれました。この医師とは相性がよくて率直に話ができ、入院もしないですみました。「どこにいても熱は出るし、入院すると本当に病気になってしまう」と言うのを認めてくれたのです。(妻が看護婦なので、自己注射の練習はしませんでした)。生活上の注意を聞いたら答えてくれたのがこの言葉です。


「人は、生きてきたように死ぬのよ」

 当時は典型的な「仕事人間」でしたが、その診断に初めて人生を振り返ったような気がします。「結構、よく働いてきた。ご苦労さんということかな」と思いました。ご多分にもれず「白血病=死」というイメージを持っていましたから、いろんな「闘病記」を読み漁りました。まあ、誰でもちゃんと死ぬもんだ、それまでは好きなことをしようというのが感想でした。この言葉はいろんな闘病記に使われていました。


「勇者は病むときも強し」

 このころ、たまたま新聞で見たのが、宮本顕治氏(当時日本共産党議長)が、若い頃入院中の友人に書いたというお見舞いの寄せ書きの言葉です。いかにも宮本さんらしいなと思いながら、人に言うのは恥ずかしいので、こっそりこの記事を切り抜いて今でも大事にとっています。「勇者」というにはおこがましいのですが、この言葉にはちょっと背中を押してもらいました。


2000年まで生きようね」

 病気のことは、可能な範囲に公表し、仕事の配置も換えてもらいました。大学時代の友人、後輩には「励ます会」をやってもらったりして恐縮しました。みんな「白血病=死」という受けとめでしたから、93年の年賀状にこのように書いてくれた友人もいたのです。当時の私にとっては「そんな無理なことを」という励ましでしたが・・。今年の年賀状には、私のほうから「2000年まで生きました」と書いておきました。


「明るく、楽しく、前向きに」

 ご存知、フェニックスクラブのモットーです。いろんな闘病記を読んだ中で大谷貴子さんの著書「霧の中の生命」は新鮮でした。これほど率直に「死にたくない」と叫んで動き回って、しかも今元気に生きている、ほうっ、こんな道もあるのかという驚きでした。大谷さんが言い出し、フェニックスクラブ発足の大阪の会合で確認したこのモットーは、その出発にふさわしい言葉でした。クラブの中での多くの新しい出会いは、私の生きる力になっています。


「死は、残されたものにとって不幸なのだ」

 病気を告知された患者は否応なしに「死」と向かい合います。多くの人はその中から現在の「生」のかけがえのない値打ちと期限にあらためて気が付いて「充実した生」を過ごそうと思うようです。しかし、家族は大変ですね。大谷さんがいろんな機会に「患者と家族は違うんです」と力説していましたが、その意味を本当に理解したのは、交流会を重ねる中で家族の方の悩み、苦しみにふれてからでした。この言葉はマルクスが死んだときに、その盟友エンゲルスが友人に宛てた手紙の中で書いていました。百年前でも、同じようなことを考えていたんですね。


「歩幅を狭く、ゆっくりと」

 治療は?と聞かれると「週1回の山歩きと温泉」と答えています。何百年と生きてきた古木でも、春にはみずみずしい若葉をつける、その生命力にふれながら、自由に歩き回る山歩き。病人にそれを可能にしたのがこの極意でした。毎年夏は北アルプス、昨年は4回目の槍をとおって憧れの黒部五郎に歩きました。今年は初めて中央アルプス、ロープウェイは使わず木曾駒から越百まで歩きました。全力で駆け抜けることができなくなっても、歩幅を狭くゆっくりと歩く、その積み重ねは現実の条件に応じた可能性をひらくことを実感します。CMLとともに歩いている私の人生の姿かもしれません。


 この体験記を書いた方と直接お話したい方、お問い合わせは、フェニックスクラブ事務局 まで。