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自然体で前を向いて

末 吉 正 典(大阪・CML・姉から移植)

 私は平成元年30歳の時、勤務先の検診で指摘された肝機能異常からCMLが発覚、翌2年に姉から骨髄移植を受けクリーンルーム6週間を含む6ヶ月で退院、順調に推移するも平成5年、硬口蓋にガンが確認され再び入院治療、その後一進一退を繰り返しながら12年のサラリーマン生活にピリオドを打ち、平成7年には三女が生まれ現在に至ります。

 当初、恐怖、不安、怒り、後悔、疑問、自責の念などあらゆるマイナスの感情にさいなまれ、悪い夢であればさめて欲しいと切望し、過去も未来も「空」となっていました。そんな自分を救ってくれたのは、やはり家族でした。自暴自棄になりかけた頃、我が家当時は小さなマンションの一室で、発病前と同じ生活が当たり前のように繰り返されていることにふと気付いたのです。2歳と0歳の娘は何もわかるはずもなくはしゃぎまわり、妻もまた私に必要最小限の気配り以外は過剰な労わりの言葉をかけるでもなく、バタバタと子育てと家事に追われていました。違うのは自分が休職していることと、血液の数値を正常に保つため薬を飲み続けていることだけで、CMLですから外見は健常者と変わりませんでした。宣告された人生の残り時間を昇っていく5年にするか、落ちていく5年にするかは自分次第ですし、しかも子供が見ているとなると「こだわり」好きな私は最低でも普通の父親でいたかったのでしょう。そして余談ですが、その時なぜか脳裏に浮かんだのが、子供の頃夢中になって読んだ漫画「巨人の星」に出てきた1シーン。40歳前後の方ならご存知でしょうか?主人公の星飛雄馬が落ち込んでいる時に、坂本竜馬の「死ぬ時はたとえ溝の中でも前のめりになって死にたい」という言葉で自らを奮い立たせている1コマです。その頃は坂本竜馬って誰や?前のめりってなんや?という程度でしたが、なんと30才過ぎにして感化されていたということです。漫画とはいえ侮れません。

 その後姉とHLAが一致することがわかり、成功率60%で骨髄移植可能と言われたのです。とはいえ当時はバンクもなく、移植自体がやっと1000例に達したという頃でした。喜んでいるのはドクターだけでこちらは何のことやらさっぱりわからず、ただ命が助かるチャンスがあるらしいことだけおぼろげに理解できました。一方で移植の実態と危険性が明らかになるにつれ不安が増し、悩みました。5年を元気でまっとうするか、6割にかけて死のリスクと向き合うか。白血病それ自体が誤診ではないかと先生に詰めより、再検査もして頂きました。しかし残り40%に自分は入らないと決めるのに時間はかかりませんでした。前向きに生きるとはいえ、何もせずにただ9割9分の確率で死を待つより、自分から行動を起こし病気に攻め込むことで精神的にも勝てそうな気がしたのです。しかも6割と言う勝算があるのですから……。そして移植待機中に自分を高めた証が欲しくてそれまで縁のなかった簿記3級の資格を取り、多少でも役に立てばと英会話にも通いました。結果としてそこは語学の習得よりも自分の存在をアピールできる場となりました。

 入院の際は不安を覚えましたがすぐに覚悟を決め、いつも前を向ける様、精神的肉体的に今より上に行ける様自己暗示の繰り返しでした。そして常に納得のいく時間を過ごすこと、自分の中でドクターより気持の上で優位にいることを心がけることで、病気を治すのは自分しかいないことを肝に銘じました。これは、硬口蓋腫瘍による入院の時も同じで、不安はありましたがいい意味での開き直りもありました。退院後は宅建主任者を取得、カウンセリングの教室に行ったりもしました。平成7年にはできるはずがないと言われていた第3子に恵まれ、平成9年からは自分の母校である小学校でPTAの役をさせてもらい、ちょうど青少年問題が急増した時期でもあったので、保護者の皆さんや先生方といろんな経験、勉強をさせて頂きました。現在は府の教育委員会に顔を出しながら、一方でホームヘルパー2級の取得に向けて勉強中です。今でも再発の不安が頭のどこかにあり、また体調の管理を怠ることは出来ませんが、とにかく生き急がず、死に急がず、自然体で、平常心で前を向いていることを心がけていることで何とかここまでやってきました。忌まわしい病気が今でも長い悪夢であって欲しいと思いつつ、一方で第2の人生を与えられたことで今こうして人間としての原点に戻ることが出来、そこから作り上げていく楽しさがある、とは言い過ぎでしょうか。少なくとも白血病は1つのきっかけであり、今の私にとっては人生を攻めるための、またある時には自分を守るための武器にもなっているようです。


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