交流会と移植の決断
A・加 藤(愛知・CML・叔父から移植)
私がCML(慢性骨髄性白血病)とわかったのは平成10年6月。家族は妻と2人の小学生だった。平成11年夏に叔父から骨髄移植を受け、元気にしているが、心境はこの間に絶望から希望、迷い、そして決断、満足と感謝へと変わった。
2年前の初夏、疲れやすく体重が月に4キロも減ったので検診を受けて血液内科のある総合病院を紹介された。白血球が20万。その日に白血病の告知を受けて入院した。絶望と不安の日々が続き、6週間後に寛解して退院した。それから骨髄移植について迷うことになった。
国内の骨髄移植の件数は、骨髄バンクによると平成12年3月までに非血縁者間で約2600件。血縁者間を含めてもそれほど大きな数にはならない。そのうちで今も元気にしている人の数はさらに少なく、移植経験のある知り合いはだれもいなかった。
主治医や本によると、CMLは発病して数年間の慢性期を経て急性転化する。慢性期は普通に生活できるが、急性転化すると治療が効かず半年程で死に至るという。急性転化がいつくるかはわからない。来年かもしれないし、10年以上先かもしれない。完治するには今のところ骨髄移植がよいが、成功する確率は条件がよくても50~70%。運が悪いと移植で死ぬこともある。
幸いその年の10月に叔父のHLAが一致した。自分は37歳。移植は若いほど、また治療期間が短いほど成功の確率が高い。叔父は「おまえが移植をやる決心がついたら、どこまででも付き合うよ」と提供に同意してくれたが、CMLの場合は本人の自覚症状がないために決断がつきかねた。「移植に成功すれば長生きできるが、もし、裏目に出たら…。このままインターフェロンの治療を続けたほうがいいのかな。」迷った。移植して元気になった人をだれも知らず、移植のことや、移植後にどんな生活をできるのかも、さっぱりわからなかったからだ。
ちょうどそのころに大谷貴子さんの「生きてるってシアワセ!」を見つけた。それまでに読んだ闘病記の主人公はみな死んでいた。移植して元気になった話は初めてだった。大谷さんの明るさと健康な人もおどろく活躍ぶりにびっくり。フェニックスクラブを知って12月初めの京都の交流会におそるおそる参加した。それが転機になった。
交流会には移植した人や化学治療で完治した人、化学治療を続けながらドナーを待つ人など60人も集まった。なかには移植して退院直後の人や1ヶ月後に移植予定の2人もいて、同じ病気の人が初対面の自分に親身に教えてくれる。移植の実際も体験した本人から聞いて不安が薄らいだ。移植後10年たった大谷さんをはじめ、みんな元気で、移植したらこんなになれるのかと夢のようだった。
移植で迷ったもう一つの理由はGVHDだ。本を読むといろいろなGVHDのことが出ており、つらい思いをして生きていて楽しいのかが、わからなかった。交流会には、移植後に目や口、皮膚のGVHDなどで悩む人が何人もおり、最新情報や体験を楽しく交換しあっている。この場は、患者が家族にもいえない不安や不満を、心を許して話し合える場所だった。われわれ発病から間もない患者にとっては、先輩患者のナマの声ほど参考になるものはない。自分の病気がこれからどうなるか、治療が進むとどうなるかを病気の先輩が身をもって示してくれる。医師の説明や最新の医学書、闘病記より具体的な新しい情報だ。本にでてないことやささいな疑問にも答えてもらえる。「自分も数年後にはああなるのかな、もしもGVHDが出たとしても、この程度なら我慢できるかな。」
交流会で自分の病気を知り立ち向かうことの大切さがわかったので、主治医に勧められて日本造血細胞移植学会や、インターフェロン治療の権威、タルパス博士の講演会にも出て、最新の治療成績や治療方法についても学んだ。そして自分の場合にはインターフェロンでの完治は難しいことがようやくわかり、移植の決断をした。
こうして1年後に移植となったが、なんとそれまでに病状が進んで急性転化してしまった。追い詰められてあとのない厳しい条件での移植。その時も落ち込んだ私を交流会で知り合ったフェニックスの人たちが面会や手紙、電話で励してくれた。みんなのおかげで生還できた。
フェニックスクラブの交流会は、仲間から勇気と元気をもらえる場所だ。もちろん参加できるのは体調のよい恵まれた人で、できない人も多い。私も移植後の入院中は、次の交流会を指折り数えて待っていた。もしもあなたが交流会について迷っているのなら、一度勇気を出して来てみてほしい。新しい友達がきっとできる。いろいろな人がいるから。
この体験記を書いた方と直接お話したい方、お問い合わせは、フェニックスクラブ事務局 まで。