ご家族の方へ

私達は、発病、闘病を経て「今」を生きています。病名を知っている、いないに関わらず、 また、病名が何であれ「病気になったこと」を受け止めるのにとても時間がかかりました。 この間、一番近くて遠かった存在が「家族」かもしれません。病気そのものが落ち着いてきた頃になり、 ようやく家族の苦しみが理解できるようになった程度です。どうか、患者と患者家族の悩みは違う、 と理解した上で患者と上手に付き合っていってください。

さて、私達が、家族に対して思ったことを列挙してみました。患者とのつきあいの上で 参考にしていただけたら幸いです。


私の闘病生活

T.I(新潟)_再生不良性貧血・移植

「バッチリ!生着してたよ、良かったネ」ニコニコしながら主治医が報告にきてくれました。 新潟大学医学部付属病院では、骨髄移植を受けて14日目にマルクをして、生着の有無を確認します。 私も両親もうれしくて、知人や友人に電話をかけまくりました。きっと、声がうわずっていたにちがいありません。

しかし、この日を迎えるまでには苦難の日々がありました。再生不良性貧血と診断されたのは もう9年も前のこと、高校を卒業して就職してすぐの18歳の時、会社の健康診断で病気がわかったのです。

「生着という快い響きの言葉を耳にするまでも大変でした。強い吐き気に襲われ、 寝返りをうつのも、そして話しをするどころか声をだすだけでも吐きそうになります。 その頃、食べ物は口にすることもできなかったので、胃液(酸)や胆汁が出るだけで、 胃腸が飛び出るくらいに、突き上げられる感じがしました。そして、下痢、血尿も…。

そんな苦しさの中でも、移植の時、ドナーの弟からもらった真っ赤な骨髄液が、ポタッ、ポタッと一滴、一滴が管に 落ちはじめたときは、なんともいえない感激を覚えました。思わず笑みがこぼれ、 目頭が熱くなりました。弟の骨髄液が入ってくるうちに、体がポカポカしてきます。 体の中に「元気のもと」がみなぎって、なんだか不思議な力がわいてきてような、 そんな感じがしました。それから10日が過ぎたころから、多少吐き気があるものの、 元気(?)になりはじめ、食事もお粥(無菌食)ではありますが、3食しっかりとっています。 そして、こうやって今、原稿を書いているのですから。

無菌室に入って、今日まで来れたのも、たくさんの人たちの応援があったからだと思っています。 皆さんからいただいた千羽鶴をはじめ、5千羽の鶴が、私を見守っていてくれました。 お守り、絵、そして励ましの手紙や電話もたくさんいただきました。毎日のように、 いろいろな人たちがお見舞いにきてくださり、励ましてくれています。

私はこんなにも大勢の人たちに支えられてここまできているんだと、つくづく感じさせられました。 だから、どんなに苦しくても頑張ったのです。ありがたいと思いました。心強いと思いました。 そして今、それが温かい…。

今のところGVHDもないようですが、まだまだこれから何が起こるかわかりません。 油断禁物!やっと、ここまで来れたのですから。

これからも頑張って、必ず元気になります。


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