みんなの声(患者編)
告知について
・治療の方法から自分で病名を調べ、主治医に確認した。
・発病後1年は告知されなかったが、転院先のドクターが告知した上でないと治療しない方針だったので告知された。
・家族の看護記録を偶然見てしまったことから知った。
その後主治医から告知を受けた。
・保険の書類を見て知った。(始めは白血病と知らされず)
・入院前日職場で血液検査をして結果を聞き、本で調べて知った。先生から聞いた時には大体の事を知っていた。
・直接であるが不完全(余命3−6カ月ということは後で知った)。
・自分の症状を医学書で照らし合わせて最悪の事態を予測してからこちらから主治医に確認した。
・細胞検査の結果として直接。ステージまでは告知されなかった。
・初診の際、地元の公立病院の医師は告知をすることなく、行きたい病院の希望を聞かれたが病名や治療可能な病院の説明もなく、指示された病院で告知を受けた。即ち病院や医師を選ぶ暇もなく訳が判らないまま治療を開始されるところだった。
・告知について医者の対応に不満がある。発病後速やかに告知をしてくれれば自分の納得出来る病院や医師を探す事もできるが、さもないと後々後悔が残る結果となるかもしれない。是非とも速やかなる告知を望む。私は義母の勧めで速やかに転院したがあのまま以前の病院に入院していればどうなっていたかわからない。患者も病院や医者の優劣を判断して納得の上で治療を受ける権利を持てるようにするべきだと思う。
・医師、両親共治療方法が明確になっていない段階での告知には否定的であった。H7年に移植受け入れ先の病院が決まって症状(慢性的な疾患で造血能力が極めて低い、完治するには骨髄移植が必要、4〜5年で悪化する恐れがある)との説明をはじめて受ける。病名は告げられなかったがそれで十分だと思った。自分の中ではCMLだとずっと勘ぐって来た事に解を得た気がした。
・正式名は診断書を見てからだが、病院がその病院であり、同室の患者が皆白血病系だった為すぐに気がついた。
治療費・生活について
・就職が内定していましたが、病気の為辞退しました。
大学は授業は全部受け、試験のみだったので何とか卒業できました。
・健康食品代として約50万円。
・小児特定疾患なので基本的な医療費は無料。他差額ベッド代やマンション賃借料等生活費も含めて4〜500万円。(遠方の病院の為)
・寡婦医療の為市から一部補助があった。
・移植後一度職場に復帰しましたが、昨年の冬肝炎を起こして退職。
・入院時、約2か月休職、インターフェロンの副作用でさらに1か月休職、以後は普通に勤務している。
(CML移植なし)
・当時高校3年生だったので、出席日数もぎりきりで卒業できるかどうか微妙でした。→無事卒業出来ました。
・医師国保は0割。外来は2割。卒業はしたが仕事は結局退職。
・私は特定疾患なのですが、最初は知らずに医療費を払ってました。(再生不良性貧血)
・私は特定疾患なので自己負担はなかったのですが、主人も同時に同じ病院に入院していて、一部保障のみでした。(再生不良性貧血)
発病した時困った事、考えた事、悩んだ事
・治療費、生活費、家族の事、仕事の事、治療方法、自分の寿命、等
・私の場合、主人も同じ時期にリンパ腫になったので大変でした。中1と小5の子供たちの事を思うと、今でも涙が出ます。幸いにも少年野球の監督御夫婦が預かってくれて転校を免れました。経済的にも保険が複数下りたり、近所の友人が定期的に交代で子供たちを見舞いに連れてきてくれたりといろんな面で恵まれていました。2人とも病気になった事は最悪でしたが、取り巻く環境は最善でした。だから何もかもうまくいくと思えました。
・何もかもが真っ白になってどうしようもなくなった。
家族や友達の事を考え、自分自身が置き去りにされた気分になった。
一体自分はどうなるのか。
@ 家族の事、入院後の生活、家計(家のローン等)
A 仕事の事、会社に迷惑をかけている。
B 死の準備(自分の葬式の事、墓、遺言)
・自分は何も悪い事をした覚えがない。酒も煙草も賭け事もしない。人に特別迷惑をかけた覚えもない。
なのに何故こんな目にあわなくてはならないのか。
もっとえげつない事をしている、極悪非道な人間は幾らでもいる。神も仏もないものか。
・(発病当時人込みを歩きながら思った事)今自分の周りを歩いている人は、みんな白血病など緑の無い事だろう。皆昨日までの生活が明日も待っていて、普通に仕事をして、食べて、寝て、些細な事で泣いて、笑って、普通に家族がいて、あれ食べたい、これが欲しい、あそこへ行きたい、あの人に会いたい……そんな事だけ考えているのだろう。ごく普通の生活がこれほどありがたいこととは……。この人達と自分と一体どこが違うのか。まさか今横にいる人間が白血病などとは夢にも思わないだろう。しかし、自分はこういう普通の人にはもう戻れない……云々。
・大学で硬式野球部の4番を打っていたので、野球がこれで出来なくなると思ったのが辛かった。彼女とも分かれた。
・発病した時は白血病と聞いて死ぬんだ、と思った。治る人なんかいないと思っていた。そんなイメージを持った人は今でもいっぱいいると思う。
・ これで仕事も何もできなくなるという「絶望的な気持」、家族に経済的負担をかけてしまうと言う「申し訳ない気持」、入院して苦しい闘病生活を送るのかという「不安な気持」……
知識や情報が不足していたので余計に。骨髄移植についても知らなかった。
・「仕事」→着付け教室をしているので生徒さんの引受先等や経営面の今後の処理を考えた。「子供」→当時中2(女子)と高2(男子)が私の死んだ後人の道にはずれることのないように、思春期なだけに心配でした。
「母、夫(家族)」→実母と同居中であり、母なりに頑張ってくれた事が他の家族の負担になり,毎日喧嘩ばかりしていたようです。それぞれの悪口を病床で聞くのは辛かった。
・発病した時は静岡で独り暮らしだったのですぐに親元へ呼ばれた。一カ月くらいは検査ばかりで自分の体の事が判らず不安だった。
・告知された時、助かる場合もあると言われたが、いつまで生きられるか不安だった。
・ドナーがいるかどうか不安、勉強の遅れ、友人関係などしばらく悩んだ。
・当時公的バンクは出来立て、地方の為情報もなく、親心等で周囲が告知を避けていたので医師や家族と病についてうまく対話が持てなかった。
・周囲の友人は各々結婚、キャリアアップと自分の人生を着実に築きつつあり、辛かった。
・特に自覚症状もなく、子供もいないので悩みというものはなかった。ただ仕事のことでは急性転化の時期も不明で責任の思い長期展望に立った仕事は引き受けられない。今の仕事が一番好きであるということに改めて気付きました。
・発病した時は病気の怖さしか考えられなかったが、ドクターが必死になって治療してくれているのがわかり、頑張ろう元気になろうという気持になりました。子供の為に大切な家族の為にやるしかないと思いました。
・結婚・再発・不妊・死
・職場の健康診断で白血球数の異常な多きにより受診。別の病気で受診していた病院で検査中、白血病の疑い有りと言われて何となくはそんなこともあるのかなと感じていた。いざ専門病院で検査、告知されるとうろたえた。知識もなく、余命考えると家族には何がしてやれるだろうか、ということが頭の中を駆けめぐった。自分がいなくなった後の家族の生活、子供の成長を考えると不安で死にたくない、生きていたい,死にたくないと言う事ばかり考えていた。
・死ぬのはいやだなあ、と思った。
・最初簡単な病気だと思っていたので、会社を半年休めると聞いてうれしさもあった。しかし実際はそれどころではなく、移植の話が出てからは事の重大さを思い知らされ将来のことについて悩んだ。
・病名は聞かされていなかったが、移植の為に高校を卒業出来ないと判り、悔しかった。
・何か悪い事したかなって悩みました(再発した今でも)。考えても仕方ないので、いろいろな事考えないようにしています。髪が抜けるのはやっぱり嫌ですね。
・いつになっても「退院」の言葉が出なかったこと。
・移植をするのが日曜で、血液センターが休みの為血小板の成分輸血をしてくれる人を探すのが大変だった。
・職場の検診により病気が発覚、自覚症状が全くなかった為、当時の不安や驚きは言葉では言い表せません。
・短大に進学予定であった為受験出来るかどうか不安であり、治療がきつくて入院中に勉強が遅れるのが嫌でした。それと脱毛です。成人式には髪をロングにしたいと夢があったから涙が止まらなかった。
・せっかく内定していた就職先に断りに行かなくてはならないつらさ、自分の将来(命の有無も含めて)について不安だらけでした。
・子供に遺伝するのかどうか。
・家族(特に子供)でなくてよかった。40代になり仕事の出来る時期に発病し、築き上げてきたものが活かせないジレンマ。
・短大卒業予定で就職先も決まっており、不安であると共に元気に学校に通っている友達が羨ましかった。
・この歳で人生が終わってしまうのか。
・周囲の人に心配をかけて辛かった。悔しかった。今死ぬのも悔しい。
・外国で治療することになったので言葉と病院食に苦労した。また私たち(特に私だけかも知れませんが)の受ける白血病という病気に対する印象と、外国人のそれが違ったような気がして最初は戸惑いました。私はどちらかというと難病とか不治の病といった様なイメージがあって絶望的な気持ちでいたのですが、主治医も 看護の人達もとくに大変という感じではなかったので、最初は戸惑いましたが後は気持的に楽でした。
・何をすれば良いか分からず、何も手に付かず、ただ落ち込むだけだった。
・考える余裕もなく化学療法が始まったので発病した頃の方が特に悩みもなかった。逆に転院して移植までの間の方が不安感が大きかった。毎日泣きたい気分だった。
・親を残しては死ねない。骨髄移植で命が助かっても生殖機能が喪失してしまうこと。
・結婚直後だったのでこれからのこと(出産・金銭・生活‥…)
・検査→仕事引き継ぎ→即入院→寛解。考える余裕がなく、入院しても先生の言う事を忠実に守る患者。 妻には苦労をかけたが子供は一人前なのでもしもの時の不安は少なかった。後は考えないようにした。
・とにかく悲しかった。当時つきあっていた彼は「不安だ」と一言残して去ってしまい、死んでしまいたいくらい悲しかった。
・友達に病名を話せなかった事。学校を続けるか退学するか悩んだ。
・検査前はCMLではないかと言われていたので、実際は別の病気であった事に対して素直に嬉しかったのを記憶しています。でも薬を飲み始めて10カ月で生理が止まったまま今もありません。仕事も就業中に何かあっては困るためと言われ、退職を勧められました。大変悔しかったです。(本態性血小板欠症)
・子供が生まれたばかりで、今後の生活の事、子供の将来の事を考えました。
・なぜ、どうしてと原因ばかりを考えてしまった。
・当時タレントの蔵間さんが亡くなった事もあり、自分もいつかは急性転化し、ドナーが現れなければ死ぬものと覚悟しました。ま、仕事を地道にやってその先に何があろうと受け入れるつもりでいた。
・ショック!やりたい事が沢山あったので入院したくなかった。結果的には通院で(2週間に1回)ハイドレアを毎日2錠3錠交互に飲んでいる。(49才主婦CML)
・プライドが高いので人前で吐けずトイレを独占した。
このままあの世へ行くなんて許せない!!絶対生きてやる!!と考えた。
・信じられないというのが本当の気持ちでした。入院した時は家族の希望で病名をごまかされましたが、納得がいかなかったので夫に聞いたところ告知してくれました。
・周囲に同じ病気の人がいないので話が出来ず一人で悩み、何も考えられなかった。情報も殆どなかった。
・私の場合発見時の病院の医師があまり信頼できなかった。というのも治療していく中でだんだん治療方針が変わって行ったからだ。データを間違ったり、ハイドレアで強い副作用があったにもかかわらず、認めようとしなかったり、ついにはそれが副作用だと認めた時、その医師に見切りをつけた。しかし病院を変わる事については少なからず悩んだ。結局実家のそばの大学病院に受け入れて貰え、よい先生にも巡り会えたのでよかったと思っている。
・子供。1才になったばかりでした。預ける親兄弟がなく泣く泣く施設に預けました。施設の方針と病状により、殆ど子供に会えず自宅にいる時も子供を引き取れません。もうすぐ4才。約3年間も一緒に暮らしていません。幸いです。こどもと暮らせたらすぐに死んでもいいと思います。
・子供が11カ月の時に発病した為、子供と離れて入院するのが辛かった。死、病気に対する恐怖より、生活の不安の方が強かった。
・白血病という病名からくるインパクトの強さ。世間の人にもっとよく理解して貰いたいと思った。
・就職を辞退しなければならず、自分の将来の見通しが全く立たなかったこと。病気のこともはっきり分からず、常にもやもやした気持ちを抱えていました。また抵抗力がない為入院中に限らず退院後もなかなか外へ出られず孤独で精神的に辛かった。あと骨髄移植をすると不妊を始めいろいろな後遺症が出ると知った時はショックでした。不妊になったら一体今後の人生をどうしたらいいのかと思いました。
・発病当時婚約中だったので、自分の病気と同時に彼女の将来についても悩んだ。
・告知を受けていなかったので「一体何の病気なの」ということで悩んだ。
・ショックはなかった。とにかく痛みと貧血を早く治してほしかった。
・家の地鎮祭の一週間後に入院してしまい、トラブルはなかったものの長年夢見たマイホームがだめになり、病気になったことよりも家が建たなかったことが悔しかった。
・アメリカ留学を控えていたのでギリギリまで行けるかどうか悩んだ。またこれからどうなるのだろうという漠然とした不安。
・20年前に主人が交通事故で亡くなっていましたので、真っ先に予備校生の娘と高校生の息子のことを考えました。もし私が死んでしまったら子供たちはどうなるのだろうと、何日も眠れない日が続きました。その上、実母が私の病気の事で床に寝ついてしまい、自分の体の事よりも母の事で大変でした。私自身も不安でしたが、子供たちはもっと不安だったのではと今思います。
・同居の義母はリュウマチで2級障害者で、家事を任せる人がいないし、下の娘はまだ4才で自分の病気よりまず自分のいなくなった家がどうやって生活していくのか分からなかった。
病気が病気だけに、そして骨髄移植など遠い夢のようで自分が1年か2年で死ぬと患うととにかく怖くで怖くてたまらなかった。そして、その恐怖を誰に訴えたら良いのか分からなかった。家族には「頑張ろうね」と強がりを言っていた。
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