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『ファミリーレスの生涯』という小説を執筆

I   (CML・弟から移植)


 私は199312月に勤務先の健康診断で白血球過多を指摘され、大学病院で染色体分析等の精密検査を受けました。小さい頃から病気をした事がなく、病院などにも行った事も無い私は、不安で不安でなりませんでした。
 医師は私に告知をしなかったのですが、医師が処方箋に書いた「ハイドレア」という薬を自分で辞書で調べたところ、自分の病名は「慢性骨髄性白血病」である事がわかりました。私はこの病気の予後・治療法を調べようと、図書館に行きました。しかし、たまたまその図書館で私が見たのは古い医学書で、骨髄移植といった新しい治療法は書いてなくて、「治療法はブスルファンの服用、診断後の平均生存期間は3年」という事でした。

 私は自分の命はあと3年である事を悟り、生きているうちにやりたい事をやっておかなければと、色々と焦りました。また、両親には自分の病気のことを、とても話す事ができませんでした。
 その後大きな書店へ行き、比較的新しい医学書を立読みしたところ、「若い患者の場合でHLAの一致するドナーが見つかれば、骨髄移植によって約60%の確率で命が助かる」という事がわかりました。しかし、最も一致する確率の高い兄弟でも、その確率は4分の1との事なので、兄弟が一人しかいない私は、期待する事はできませんでした。
そしてその後、たった一人の兄弟である弟が大阪から上京してHLA検査を受け、とても幸運な事に、HLAが一致している事がわかりました。

 私は骨髄移植が成功して命が助かっても、生殖機能の喪失等、色々な障害が残るという事を聞き、「命が助かれば、それで良いのか」という移植後のQOLの問題で色々と悩みました。しかし、悩んでいても死期が迫ってくるだけなので、思い切って移植を受ける事を決断し、9411月に骨髄移植を受けました。移植を受けて4ヶ月後に間質性肺炎となりましたが運よく助かり、95年9月に元の職場に復帰をしました。

 その後、移植による慢性GVHDにより、口腔粘膜障害、筋肉の繊維化、涙腺障害による重度ドライアイ等、色々な障害に悩まされました。中でも28ヶ月間に及んだドライアイは、非常に辛かったです。この間はいつも目が痛くてゴロゴロし、目をまともに開けている事ができず、歩行中でも会話中でも5分おきに人工涙液を点眼しなければなりませんでした。しかしそのドライアイも「涙点閉鎖」という処置により症状が改善されました。

 私は98年8月に結婚し、今では発病前のように、仕事で忙しい日々を送っています。しかし、現在の一番の悩みは、我々夫婦に子供ができない事です。しかし命が助かって障害が治り、同僚と肩を並べて元気に働けるようになっただけでも、ありがたいと思わなければなりません。

 私は199512月に、『ファミリーレスの生涯』という小説を執筆し、書籍として出版をしました。この小説は、発病の3ヶ月前である1993年9月から、骨髄移植を受けて職場に復帰する1日前である1995年8月31日迄の、自分の日々の記録を小説にしたものです。上記で述べた自分の闘病の日々の記録が、詳細に書いてあります。また、これから骨髄移植をうけようとする患者さんへの情報提供を目的に、骨髄移植に関しては詳細に書いてあります。読んで頂ける方へは、下記宛に送付先・連絡先をご連絡頂ければ、送料を私の負担でお送りさせて頂きます。
 


 この体験記を書いた方と直接お話したい方、お問い合わせは、フェニックスクラブ事務局 まで。