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血液疾患患者の会・フェニックスクラブをよびかけて

大 谷  貴 子(埼玉・CML・母から移植)

 白血病と診断され、右往左往しているうちに、時間はどんどん過ぎていく。患者に残された時間はどんどん減っていく……。 今のようにインターネットで情報を引き出す事もできない、悶々とした日々を過ごされた経験を皆さん少なからずお持ちだと思います。 もちろん、私もそうでした。しかし私と姉には天性というかなんというか、厚かましさだけは親から譲り受けていたので、先生への質問、 セカンドオピニオンを求めること、転院など、今から考えると、「ホンマに向こう見ずの性格でよかったなあ」と思う事ばかりでした。

 198612月慢性骨髄性白血病と診断され、1988年1月に母からの骨髄移植を受けるまでの厳しかった道のりを、その天性の厚かましさと 明るさで乗り越えてきた私でさえ、まさか、そののちに「悲しくて、悲しくて、生きている意味さえ問う毎日」に襲われるとは夢にも思い ませんでした。それが移植の抗がん剤による「不妊」という現実でした。

 主治医や家族にぶちまけても不満が解消されるわけでもなく、ましてや、学生時代の友人などには、話そうという気さえおこりません。
 そんな時です。一人の白血病の青年と新幹線に乗り、約3時間、話す機会に恵まれました。そして、新幹線を降りた時、私は、なんともいえず 爽やかな気持ちになっていました。
 それまで、何事にも心を閉ざしていた私は、患者さんと会話をするなんて「同病相憐れむ」だと思っていたのです。しかし、なんともいえない この爽やかさは何?……これが、フェニックスクラブを呼びかける動機となりました。

  このとき、一緒にお話した青年・小磯くんは今は亡き人となりましたが、小磯くんが初代事務局を引き受けて下さって、フェニックスクラブ が誕生しました。
 その後は?もう、言わずとも知れた、飲み会を中心とした?心地酔い、いえ、いえ、心地よいフェニックスクラブとなったのは言うまでもありません。 今や、インターネットが発達し、最新情報をすぐに入手することもできますし、セカンドオピニオンなどと大袈裟な言葉で構えなくても、 メールで専門医の診断を仰ぐことも出来る時代になりました。

 しかし、顔を見て、言葉を交わし、肩を叩き合って、酒を酌み交わし……という一世代古い青春映画のような交流会もとても大切な時間だと 思っています。フェニックスクラブの交流会に参加する時は、ドキドキしていて、ちょっと暗い顔つきの患者さんも帰る時には、みんな、笑顔、 笑顔……。お互いに元気をプレゼントしあって、再会を願って、家路に向かいます。

 この冊子は、一人でも多くの患者さんたちの笑顔に会いたくて作られました。涙、涙のあとの笑顔はとりわけ美人に見えます。一人で、 悩んでないで、思い切って、心を開いてみませんか。それが、志半ばに旅立った小磯くんはじめ多くの病友の願いでもあると思います。 病気になったのも何かの縁。どうせ、いやな縁なら徹底的に「利用」しちゃいましょう!っね。

巻頭に寄せて。大谷貴子でした。


 この体験記を書いた方と直接お話したい方、お問い合わせは、フェニックスクラブ事務局 まで。