お医者さんにどんな質問をしたらいい?

さて、発病当時はいくら本を読んでもチンプンカンプン。そこで、次に私たち「先輩患者」が、 「あの時質問をしておけば良かったなあ」と思った項目をご披露しましょう。


私の闘病生活

M.S(大阪)_慢性骨髄性白血病・移植

私が31歳で慢性骨髄性白血病とし診断された時、少し疲れやすい程度でまったく健常者と同じでしたので、 白血球を投薬でコントロールしていた他は治療らしい治療はしていませんでした。 しかし、とりあえず会社は休職し、精神的に落ちついてから、まず簿記3級の資格を取りました。 これは、商業高校を出れば簡単に取れるものですが、大学の農学部を出て食品会社で 技術職にあった私にとって、全く未知の分野でありましたし、といって自分で商売をするにも、 会社で管理職へと進むにも知っていて損はしないと思ったからです。今、大いに役立っています。

更に、その後移植まで3ヶ月間、英会話を習いに行きました。ここでは英語を話せるように、 というよりも、人との会話とかふれあいを求めたのですが、多くの人と知り合いになり、 今でも連絡を取り合っている人もいます。私も何かと勇気づけられましたが、 他のメンバーや外人講師に与えたインパクトも相当あったようです。

最悪の事態を考えれば無駄になるかも知れないと思いましたが、かといって元気になれた時を考えると、 この時間何もしないのは勿体ないでしょう。遅かれ早かれ命がなくなるまでは前向きに、 積極的に生きるほうが自分にも、家族や友人を初めとする周囲にもよい影響を与えるだろうし、 何より充実した人生を送れるだろうと思ったわけです。

そしてあの阪神大震災のあった激動の平成7年には、待望の三女を授かりました。 私は放射線の全身照射はしていなかったものの、相当きつい抗ガン剤を移植の前処置で服用していたので、 できるかどうか、またできても障害児ではないかなど不安はありました。しかし、 ドクターの「たぶんできないだろうし、できたとして問題を持って生まれてくる確立は 正常人の場合と同じと思ってよい。」という言葉に、自分の生命力を試してみたくなったのです。 平成5年には、父と祖父を相次いで亡くしていたので、家の中を賑やかにしたい、 という気持ちもありました。周囲の方々には心から感謝している次第です。

私は闘病生活を、とてつもなく長いマラソンだと自分に言い聞かせました。 本物のマラソンは知りませんが、走っても走ってもゴールが見えない、そんな感じだったからです。 あまり先を見ずに、まず次の電柱、そしてまた次の電柱と取り合えず目の前の目標を クリアしていくことの積み重ねで、いつかゴールするだろうと思ったのです。 とくに血液疾患は免疫機能が異常になる場合が多く、抵抗力も弱くなりいろんな感染症を覚悟しなければなりません。 それを一つずつクリアしていくことが、病気を克服することにつながっていくのです。 くじけずにフェニックスに参加して、「病んでいる気」を吹き飛ばし、「元の気」 を取り戻して「健康的な精神・・・元気」をもって前向きに治療に臨んでください。


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